その代わり、私がいるはず『僕の狂ったフェミ彼女』
フェミニズムに目覚めてから、韓国発のフェミニズムに触れることは本当に多い。日本よりも何歩も先を進んでいる。
タイトルを見た瞬間から、読みたい!と思っていた韓国女性による小説『僕の狂ったフェミ彼女』を読んだ。
かつて付き合っていた恋人と数年ぶりに再会すると、彼女はメガル(日本でいうところのツイフェミみたいなニュアンスかなあ?ちょっと違うかなあ?)になっていた。
”僕”と彼女は再び付き合いはじめるが、度々衝突する。そりゃそうだ・・。フェミニストといわゆる普通の(内面に無意識にミソジニーを抱えた)男性が、平穏に付き合えるはずない。
”僕”の語りで物語が進行していくのだが、なかなかナチュラルにミソジニーに溢れていて、ああ、なんか知ってるわあ・・というセリフやエピソードの連続だった。
おそらくこの日本でも、ほとんどの一般的ないわゆる普通と呼ばれるステイタスの男性たちは・・この小説の”僕”と似たようなミソジニーを抱えていて、しかもそれをミソジニーだと認識することなく、自分たちは女性にやさしい紳士的な男性だと思い込んでいることだろう。
女性にやさしい、女性の話をきく、暴力なんか振るわない、性犯罪を犯さない・・これくらいを満たしている自分は、女性蔑視などしているはずがないって思ってる。
でも、”僕”のモノローグはいつだって女性蔑視を滲ませているし、おそらくほとんどの一般的な男性のそれと共通している。
家父長制が蔓延る社会で育った男児はそのまま大人の男性となり、自然に息を吐くようにミソジニーを振りまく。彼らにとってあまりに当たり前だから、それがミソジニーとは気づけないほどに。
とはいえ、”僕”は、完全には憎みきれないキャラクターで、彼女のことを理解しようと(見当外れでも)努力して行動しようとしたりもする。
”僕”は大手企業に勤務するスペック高めの男性だ。もし、フェミニズムに出会う前の女性が付き合うなら、う〜ん、いわゆる「当たり」「優良物件」の男性であるとすら思うわけだ。
ただし、フェミニズムを知ってしまうと、以前の価値観なら「当たり」だったかもしれない男性たちを、そのような視線で見ることはできなくなる。
いや、もう最後どうなるんだ? なんだかんだありつつも結局ふたりはお互いを尊重し合いながら結婚します、みたいなラストだったら吐くかもしれないと、ソワソワしながら読み進めたが・・
納得のいくラストだった。
”僕”の「将来、旦那も子供もいなくて寂しくない?」といったような問いに、彼女は「その代わり、私がいるはず」と答える。
なんだかわからないがこのシーンで唐突に涙が溢れた。
そうだよ、「私」がいるはずだ。
なんだろう、すごく勇気づけられ、同時に作者があとがきで書いているような気持ちも非常に理解できた。
誰かと歩みたいと願う自分がいる一方で、フェミニズムを知れば知るほど現実にはそんな”誰か”に該当するような男性など存在するはずがないと気づいてしまう、その絶望感。苦しみ。そして、まだ捨てられない希望。
何が正解かわからないが、フェミニズムに目覚めた私にできることは、ほんの些細なことでもいいから行動で示すこと、言葉にすること。少しずつできることから変えていくこと、だ。