誰しもミソジニーを内包している
ブログをはじめて3年経ったわけだが、3年も経過すると、過去に書いた記事が今では「ちょっと違うな?」と思うことがある。
特に、ここ数ヶ月で、私はかなり考え方に変化があった。過去に書いた記事を読み返したりすると、「ここ、なんか違うなあ」という箇所がけっこうある。
ただ当時はそのように感じて書いたのだし、あまりに今の考え方と乖離しているようなら修正や加筆するが、ほとんどそのままになっている状態だ。
今こうやって書いている記事だって、数年後に読み返したらひょっとして違和感を覚えるものになるのかもしれない。
昨年の秋ぐらいから、私は目が覚めた。それ以来、景色の見え方が変わった。人々を取り巻くあらゆるのものに、当たり前の日常に、ミソジニーが内包されていることを痛いほど感じている。
自分が過去に好きだった小説や漫画やアニメ、映画や絵画や音楽・・。そういった作品たちの中にもミソジニーが息づいていることに気づいたとき、とてもショックだった。
インターネット、ラジオから流れる音楽の歌詞、電車内の広告、商品のキャッチコピー、テレビCM、職場での誰かの何気ない一言、洋服や下着の形や素材・・日常のあらゆる風景の中にミソジニーは見え隠れする。気味が悪いほどに”自然”に溶け込んでいる。
つまりは、女性差別は、あまりに”自然”に日常の風景に溶け込んでいるため、それらをミソジニーだと気づけないほどに、当たり前のものとして蔓延っている、ということだ。
例えば、歌番組を観ていて、ある男性歌手の曲で、父と母についての歌詞の内容に違和感があった。なぜ父は・・で、母は・・なのか?と。以前ならそこまで気にならなかったことが気になって仕方がなかった。
また、ある人気のグループの歌詞にも強烈な違和感があった。ただ文字通りに受け取れば、女性を讃美したような歌詞だ。でも、私は気持ち悪いと感じた。歌詞の中の女性はひたすら客体化され讃美される。このグループの歌詞は純粋な恋愛といったイメージで世間ではとても支持されているようなのだが、無邪気にミソジニーを孕んでいるようで言いようのない気味悪さがある(私の思い過ごしかもしれない。考えすぎかもしれない。でも、どうしようもなく気持ちが悪いのだ・・)
このグループの歌詞だけでなく、あらゆる表現の中で、女性を女神化、神聖化、神格化するような内容は、=ミソジニーという場合が多分にあることにも注意を払わなければならない。女性讃美を装った無意識で無邪気なミソジニーは、とても不気味で恐ろしく、たちが悪いものだ。
また、過去に、多くの人たちが当たり前のように受け入れていたり賞賛している作品などについて、どうも自分は好きになれない、理由はわからないが何かモヤモヤするといったことがよくあったのだが、今振り返ると「ああ、あれはミソジニーを孕んだ内容だったから手放しで肯定できなかったんだ」と気づく。
(※創作の分野で難しいのは、女性蔑視的な表現があるとすべてNGということではなくて、文脈からの判断が必要になるところだ。その創作物において、女性蔑視はどのように作用しているものか、どういった観点から描かれているものなのかということを注視する必要がある)
そして、もっとも辛く衝撃的だったのは、私自身の中にもミソジニーがあるということだ。誰しもミソジニーを内包している。自分自身が女でありながら、無意識に男性目線で女性を軽蔑したりする瞬間があることに気づく。
女だから化粧をするのはマナー、外見を整えなければならない、愛想よく振る舞わなければいけない、空気を読んで対応しなければいけない、職場の男性を怒らせないようにしなければいけない、気配りをしていつも他者に配慮して丁寧でやさしくあらねばならない・・
気づくと私自身が、無意識に「女らしい」とされる役割に縛られて、それをできないと罪悪感や後ろめたさを抱くようになっている、そういったことにも衝撃だった。
私は、それほど「女らしさ」に縛られていないと思い込んでいたのに、まったくそんなことはなかった。自分の中にあるミソジニーに気づいたとき、これらと向き合わなければいけないと思った。
日常に当たり前のように遍在するミソジニーに気づいてから、今までのように娯楽やエンターテインメントを楽しめなくなってきてしまった。こんなにもミソジニーに塗られた世の中だったと気づいてしまってから、もう今まで通りに生きていけない。
目を閉じ、耳を塞ぎ、口をつぐんで、知らないでいたらよかったんだろうか?気づいても気づかないふりをして何事もなかったようにやりすごせばよかったんだろうか?
いや、私にはそんなことできない。気づいてしまったからには、今まで通りに生きていけるわけがなかった。
むちゃくちゃ苦しい。なんだこれは。苦しくて苦しくて仕方がない。