対話するかどうか決めるのは私『私たちにはことばが必要だ』
誰かから質問されたことに、理解してもらおうと一生懸命答えるのだが、なぜか自分自身が傷つきすり減ったことはないか?丁寧にわかりやすく伝えようと骨を折ったのに、徒労に終わったことはないか?
私は、ある。
いや、ある、というか、その連続といっていい。誰かと対話する時、相手に私の意図がまったく通じないとき、または、最初から私を貶めるつもりで発された質問にそれと気づかず丁寧に答えた挙句、嘲笑を伴った悪意を持って対応されたりするとき、悪意のない装いで無邪気に傷つけてくる質問をされたとき・・
そんなことはしばしばある。そういうとき、どうする?
相手からの質問に、もっと的確に反撃できる言葉がほしいと思う。それなのに、私は、ただ心のうちに正体不明の”モヤモヤ”を抱えて、そういった質問を前にして、確固たる言葉を持たなかった。
不意打ちで質問が飛んできた時、心とは裏腹な不本意な対応をしてしまったり、愛想笑いでごまかしてしまったり、毅然とした態度をとれないことがよくある。
なぜかって?
いわゆる弱者側、マイノリティ側の人間にとって、相手を不快にさせたり怒らせることで、身の危険を感じたり立場が悪くなることを恐れるからだ。
だからこそ、言葉を飲み込んでしまう。そして、得体の知れない”モヤモヤ”の正体を突き止められずにいた。
そういったときどうすればいいか?について、最近読んだ本でヒントをもらった。
『私たちにはことばが必要だ』イ・ミンギョン著
この本は、いわゆるフェミニズムの本だ。著者は韓国人の女性。
フェミニズムと聞くだけで拒否反応を起こす方々もいるかと思う。が、この本を読んで、ほとんどの女性は共感するんじゃないかな。女という性別で生まれたならば、誰もが経験のある、もう感覚として幼い頃から知っている差別についての”モヤモヤ”に、確固たる言葉が与えられる・・そんな内容だと思った。
また、この本での「対話をするかしないかは私が決める」というスタンスには勇気をもらった。そして、なぜこれまで自分があらゆる場面で”モヤモヤ”を抱えながらも、それらをうまく言語化できず、ただひたすら傷ついてきたのかを、思い返していた。
この本には、女性嫌悪についての様々なパターンの発言に対して、どんな応酬をすると最適かということについても、かなり詳しく書いてある。
例えば、「男には兵役がある」とか「男には男の苦労がある」「女は楽しやがって」とか「ごく一部の話だろ?」「おまえが被害者でもないくせに」といったような言葉に対して、秀逸な返しが提案されている。
また、私たち一人一人の人生こそが差別の根拠であるという著者の言葉には強く共感した。差別は、ある。だって、私たち一人一人がこれまでの経験の積み重ねでそう感じてきたのだから、それこそが根拠だと。
女性嫌悪に限らず、あらゆる差別に対して「差別はない」と言い切ることができる人というのは、差別を感じずに生きてこられた特権者・権力者だからに他ならない。自分には見えないのだから「差別はない」と言う。でも、そうじゃないということを、あらためて確信した。
この本は、フェミニズムの本だけど、あらゆる差別的言動に対して応用が効くと思った。
例えば、非正規労働者として働いていると、差別的な言動や素朴を装った悪意ある質問を受けることがあると思う。
そうだな・・典型的なのは、「なんで正社員にならないの?」「なんでずっと派遣なの?」とか。
そういった悪意が隠された素朴を装った質問に対しても、「対話するかしないかを決めるのは私」というスタンスで臨むと、傷は浅くなると感じた。
韓国での女性の生きづらさは、日本のそれと非常に似ているように思った。
2016年、ソウルで起きた江南駅女性刺殺事件。被害者は”ただ女性だということだけで”殺された。この事件をきっかけに韓国では女性たちが声を上げはじめた。日本でもストーカー殺人事件など、あとを絶たない。これらの背景には女性嫌悪がある。
確かに、女性が参政権を持たなかった頃よりは、格段に女性は生きやすくなった。でも、差別は決してなくなってはいない。当たり前のようにそこにあって、悲しいかな、女性側はそれを受け入れざるをえない、そうしないと生きていけない状況がそこかしこにあるんだ。
私たちが、「女ということだけで」これ以上自責の念に苛まれないように、もっともっと多くの言葉を持つことがすごく大事だと感じている。
この本のタイトルそのもので、私たちにはことばが必要だ。