女性が男性を支配する世界『パワー』

電車に乗って座席に座っているとき、隣の股を大きく開いた男性は、私の陣地を半分近く侵食している。本来なら一人につき1あるはずの座席のスペース。隣に座っているサラリーマンらしき男性は、何食わぬ顔をして1.5近くのスペースを独占する。

そんな女性のスペースを奪う男性が両隣にいたときは最悪だ。私のスペースは半分以下になってしまうこともある(ほぼ座ってられない。両隣の男性に体を密着されて挟まれている状態・・あまりにひどい時は席を立つしかない・・)

思い浮かべてみてほしい。こういった光景は日常茶飯事だ。自分がその当事者の場合もあるし、他の女性が小さなスペースに縮こまって座っている両隣で、巨体をリラックスして投げ出し周囲に配慮することなく、それが当然だと言わんばかりに自宅のソファでくつろいでいるのか?と錯覚してしまうほどの男性たちを目にすることは、ありふれた光景だ。

そう。あまりに日常的でありふれた光景だ。

ただ、声をあげるのは恐ろしい。もし、隣に座っているその男性に、「膝を閉じてくれませんか?」と伝えようものなら、「うるせえ、ババア!!」と突然殴りかかってくるかもしれない。顔面に拳をお見舞いされるかもしれない。暴力的な言葉を浴びせられるかもしれない。スマートフォンで撮影され、罵倒されるかもしれない・・。

女性側はあらゆる最悪の事態を想像する。

女性の生きている世界って、それが当たり前だ。日常だ。いつも男性の加害や暴力に怯えながら、スペースを奪われる恐怖に慄きながら、私たち女性は生きている。

電車の中で、エレベーターで、ひとり歩く暗い夜道で・・数え上げればキリがないほど、常に無意識に周囲を警戒しながら、加害される恐怖に怯えている。

あまりに当たり前で、ずっとずっと当然のようにそうだったから、そうやって自衛しながら生きなければならないことがおかしいと気づけないほどに、私たちはいつも死や暴力と隣り合わせの世界に生きている。

おおげさだって?

現代日本でそんなわけないって?

きっと、これを読んでおおげさだと笑う人がいるのだとしたら、それは男性に他ならない。彼らは、常に暴力と隣合わせに生きている女性の日常を、身体に刻み込まれた恐怖として感じることはできない。

なぜなら、身体的なパワーがあるから。

だからこそ、笑っていられる。気のせいだよ、大袈裟だよ、と。彼らは加害する側の人間だから、支配され搾取される側の女性の感情など、知るはずもない。

さて?

ずいぶん前置きが長くなったが、ナオミ・オルダーマンの『パワー』という小説を読んだ。

この小説では、女性たちが手から電流を発生させることができるようになり、圧倒的なパワーを手に入れ男性たちを支配する側になる。男女反転のディストピア小説だ。

この小説で、力を持った女性たちは、暴力を振るうし戦争するし権力の座をかけてパワーゲームもする。それって、現実の世界で男性たちがやってることそのものなんだよね。

つまりは、もし男性を支配できるほどの圧倒的な力を女性が手にしたなら、女性も戦争をはじめるってことだろうか?としばし考えた。

私は「戦争はいつだって男性がはじめる」と考えてきた。だから、もし男性を凌ぐ身体的なパワーを手に入れたときに女性も戦争をはじめるかもしれない・・という想像は、少なからずショックだった。

一方で、女性は優しく周囲に配慮できて協調的で穏やかで・・といった、いわゆる女性らしさとして認識されている特徴は、やはり根拠がないものだとも感じた。

そうだよ、女たちが優しくて穏やかでいつも誰かの世話をしているのは、決して女性の生まれながらの資質として備わっているものではなく、男社会が女性たちに「こうであれ」と仕向けた結果なのだ。

女性が男性を支配していく描写は、かなりハードで残酷な表現もあるが、ふと気づく。

あれ? そうだよね。これって、今、現実に男性たちが女性たちにしてることそのものじゃないか、と。

恐るべきミラーリングだと思った。

フェミニズム

Posted by しがらみん