女は捨てたりさぼったりするものではない

小説や映画やドラマやバラエティ番組などを観ていて、散見されるたぐいの言葉がある。

「結婚して子供産んで、気づいたら女を捨ててた」
「若いのに、女さぼってちゃもったいないよ」
「あのオバハン、いかにも女捨ててるって感じでさあ」
「歳を重ねても女でありたい」
「やっぱり女はいつまでも女であることを捨てちゃいけないよね」

などなど・・

いくらでもこの類の台詞や日常会話を思い浮かべることができる。それくらい、当たり前のように日常に蔓延り、これらの言葉に違和感がないという人たちが多いのだろう。

私はもともとこういったたぐいの言葉や台詞に、ずっと違和感を抱いていきた。そして、日常に遍在するミソジニーに気づいてからというもの、これらの言葉や台詞に違和感だけで括ることのできない、女性蔑視そのものを感じとるようになった。

女を捨てる?女をさぼる?

私は生まれて40年以上、一度たりとも、女をさぼったことなどないし、捨てたこともない。そう断言できる。

女という身体で生まれてから、私の思想や行動がどうであろうと、私はずっと間違いなく女であって、サボったり捨てたりできたりしない。私がこの先歳を重ねて70歳、80歳と生きたとして、ずっと女を捨てることなどできないし、さぼることなんてありえないことだ。

だって、女という身体で生まれたのだから。

私が、いわゆる男性的と言われる思考を持っていたとして、いわゆる男性的な行動や男性が好むような事柄が好きなのだとして、たとえば同性である女性が恋愛対象だとしたって、私の身体は変えようもなく女であり、別の性別に変わることなどできない。

生まれ持った身体に、決して抗うことはできない。いくら自分を「女らしくない」と思ったところで、女性の身体で生まれ女性機能を備えた自分は、女以外にはなれない。

(「心と体の性別が違う」という言説をしばしば聞くが、その「心の性別」とは一体何を基準に判断したのだろうか。ピンクが好きスカートが好きコスメが好き可愛いものが好き、社会が「女性らしい」と定義する特徴に当てはまるから、身体は男性でも心は女性だというのか?もし、まったく別の社会規範の国で生まれ、そこではピンクやスカートや化粧が女性の象徴ではなく、「女性らしい」の定義がまったく異なる場合、それでも「自分の心の性別は身体と違う」と断言できるのだとしたら、その理由が知りたい)

そう考えていくと、冒頭にあげたような当たり前のように吐かれる言葉たちに登場する「女」とは、社会規範にのっとった「女」であるということに気づく。

繰り返すが、女は女に生まれたならいつでも女だ。だから捨てたりさぼったりする性質のものではない。にもかかわらず、「女を捨ててる」「女をさぼってる」「女であり続けたい」という考えが生まれるのは、社会が巧妙に刷り込んできた「女は美しくあるべきという社会規範から外れた女など、女ではない」という圧力に、知らず知らずのうちに支配されてしまっているからだ。

女性が美しく綺麗であり続けることで、やさしく従順で身の程を知り、わきまえていて細かいところに気を配れて面倒見よくあり続けることで、都合のいいのは誰だろう?得をするのは誰だろう?

「女性がいつまでも美しくあり続けようと努力するのは、自分自身のため。男性のためなんかじゃない!」という言説が現在最もスタンダードかな?と感じるのだが、それすらも私は欺瞞だと感じる。

美しくなるのは自分のため?

果たして本当にそうだろうか。

化粧を施し、全身の毛をなくし、機能性を奪われた女性身体を強調する洋服に身を包み、健康を害するネイルやマツエクをし、動きにくいヒールをはき、行動を制限されてまで時間とお金を費やしてまで、美しさを優先して外見を過剰に整える努力をするのはなぜだろう?

「美しくなるのは自分の気分をあげるため」というのなら、ひとり自宅で例えば資格の勉強をしたり集中力を要する作業に励んたりする時も、バッチリメイクして黒目を大きくするコンタクトを装着して動きにくい服を着ておこなうだろうか?

しないよね。外見を美しく装飾して気分を上げても、勉強の集中力があがるわけではないし、むしろ阻害されるよね。

つまりは・・美しくあろうとするのは、外からの視線に対応するためだ。社会からの要求に応えるためだ。もっと厳密にいうのなら、

社会から不利益を被らないため、排除や加害されないためだ。

男性優位社会、家父長制社会は、常に男性にとって都合のよい女性像を巧妙に刷り込んでくる。今、当たり前のように「女性らしさ」と言われているものの数々をひとつひとつ検証していくと、それらは、社会からの要求により、「女性ならこうあるべき」という圧力に従って生まれてきたものであり、女性自身が自ら好き好んで選びとってきたものではないことに気づく。

わかりやすい例でいうと、就職活動の際、女性の場合は、外見によって左右されるシーンが多い。同じスペックの女性が2人いたとして、どちらかを選ばなければという場面では、若く美しいほうが選ばれる。最悪、能力が不足している女性でも美しいゆえに採用されるということすらある。

就職活動だけではない。あらゆる場面で、美しくないこと、容姿が劣っていることは、マイナスに作用する。男性のように顔を洗って歯を磨いて髪の毛と服装を整え清潔感を出すだけでは許されない。男性の望む女性像を体現できていない女性には、「×」が下される。

化粧をしていなければ、「社会人としてのマナーがなってない」「不細工のくせに化粧くらいしろ」と言われる。(一方で、外見を整えいわゆる女らしさを全面に出していると「女を武器にしている」「男に媚びている」「女は見た目さえよけりゃいいなんて楽勝だよな」などと叩かれることもあるというダブルスタンダードぶりだ)

そう、つまりは、「女をサボるな」「女を捨てるな」「美しさは女性の価値」などの当たり前のように創作物や日常に蔓延る言葉たちは、男性優位社会からの女性たちへのサブリミナルなメッセージと言える。

女性が装飾し外見を美しく整えることに注力するのは、それをしていないと男性優位社会から排除され加害され不利益を被るからだ。

女性たちの中には、自らの容姿の良さを利用し、より美しく装飾することで、戦略的に希望するポジションを得ようとする場合もあると思われる。そういったケースでも、結局は女性は主体的に行動することはできず、若さや美しさで男性から承認され選ばれることで地位を獲得することになるので、受動的な選択と言わざるを得ない。

自己防衛のため、承認されたり選ばれるために装飾せざるを得ないのだとしたら、それは真に「自分のため」とは言い切れないように私は感じる。

もし、女性も男性と同じように、ちゃんと洗顔して歯を磨いて髪の毛と服装を整えて清潔感のある身なりをしていればOKという世の中だったら、女性たちはこれほどまでに進んで美しくなろうと過剰に装飾しただろうか?

テレビの中の女性、街ゆく見知らぬ女性、職場の女性・・目に入るすべての女性たちを当然のように、さも自分にはその権限があるとでも言いたげに得意げにジャッジしてランク付けする男性たち。

気に入らない女性がいれば、外見を揶揄し嘲笑し貶める。親しみのつもりで・・とか言いながら、冗談まじりで女性の容姿をいじる。女性たちは、加害されたり排除されたり不利益を被る材料を少しでも減らすために、外見を整えざるを得ない。

昨今、この社会はルッキズムに支配されすぎているように感じる。美容整形をして外見だけでなく内面も明るく変われたというような記事を目にすることがあるが、変わる必要があるのは、他者を外見で過剰にジャッジする社会の在り方のほうなんじゃないのか?

私たち女性が「自分のために」選びとってきたと思い込んできたことが、実は社会に選ばされていたと気づいたとき、私はいてもたってもいられなくなったんだ。

何気ないちょっとした言葉の裏側にミソジニーが滲んでいるのを見過ごせなくなった。この社会には、あまりに自然に女性蔑視が蔓延っていて、当事者である女性自身もそれが当たり前として受け入れてしまうんだ。知らないうちに、男性社会が要求する「女性らしさ」に染まり、それに当てはまらないと罪悪感や後ろめたさを感じるようになっていく。

生まれた瞬間から、私たち女性は、巧妙に少しずつジリジリと自尊心を奪われていくんだ。女性たちの地獄。

「女の子って楽しい♪」ってなんかの化粧品のキャッチコピーだったかな。私は一度も思ったことがないね。女の子が楽しいだなんて。地獄だよ。自尊心を奪われ女性仕草を強要され、主体的な自由なんかないよ。もっと美しくなれ!と高額な化粧品を売りつけられ、装飾をすることを強制され、それが女の楽しみと思い込まされる地獄。

「一瞬も一生も美しく」・・か。こういうキャッチコピーもあったな。一瞬しか美しくないよ。外見的な美は衰え失われていくが、知識や体験は内面に蓄積される。女性たちが一生のうちに化粧品や美容に費やす時間とお金と労力をもっと違うことに注げていたら、女性たちの一生は今よりずっと豊かなものになるはずだ。

女性たちから自尊心を奪った上でそれをカバーするための化粧品を売りつける。「あんたの外見だと損するよ」「年をとってもキレイでい続けないとね」ってモノを売りつけたり、全身の毛を抜け、美容整形しろと脅してくる広告が街中にも電車内にもネットやテレビCMでもあらゆる場所に溢れている。

社会全体で女性を蔑視しているんだなって気づいたときの絶望感は、ずっと消えることがない。

フェミニズム

Posted by しがらみん