時間が解決しない『嫌いな人』との向き合い方・自尊心を取り戻せ!
わたくしは、しがらみん。アラフォー漂流おひとりさまだ。
さて、『嫌いな人』っているだろうか?
「私は嫌いな人などいません」という聖人君子のような人は、実在する。
いや、本当にいる。そういったできた人間は・・間違いなく、いる。
ただ、私は、そのような人間ではない。嫌いな人間は、いる。
そして、『嫌いな人』の残像に苦しめられている。
ほとんどの人には、程度の差はあれど『嫌いな人』がいるのではないかな?
私はというと、正直、今現在も、嫌いな相手からのちょっとした言葉などを思い出しては、眠れないこともあるほどだ。
ある程度のことは、時間が解決してくれる。時間が経ってなんとも思わなくなった相手もいる。気にしなくなった言葉もある。
ただ、時間が解決してくれない『嫌いな人』っている。時間が経っても思い出す『言葉』がある。それらに悩み苦しむことが、なかなか終わってくれない。
・もうすでに交流がなく、時間の経過と共に忘れてもいいはずの『嫌いな人』
・ふとした瞬間に思い出し、悩みや苦しみの原因になる『嫌いな人』
私が、そういった『嫌いな人』と、どのように向き合って、その感情に折り合いをつけようとしているか、私自身の気持ちを整理するために、書いてみたいと思う。
(※以下かなり長文で、一個人の心の変遷であり、how to的な内容ではないということを申し上げておく)
時間が経っても『嫌いな人』として思い出してしまう人
過去に知り合って、数年以上が経過し、すでに交流がない相手。時間の経過とともに忘れるべき存在であるはずの『嫌いな人』。
ところが、もう顔を合わせる必要がなくなり無関係になったというのに、ふとした瞬間に『嫌いな人』の行動や言動を思い出しては吐き気がしたり、怒りの感情に包まれる。
未だに『嫌いな人』の全開の笑顔(全方位に好かれようとする・・)を思い出しては、煩悶する。
私には、上記のような感情を沸き上がらせる【嫌いな人】がいるのだが、会わなくなり無関係になった現在だからこそわかったことがある。
それは・・
おお、私は、自分で思っていた以上に、【嫌いな人】が嫌いだったのだと。
強烈に苛烈に激烈に・・嫌いだったのだな、ということがわかった。
(※以下、私にとって特定の嫌いな人である人物について、【嫌いな人】と表記する)
なぜ【嫌いな人】を嫌いだと感じるのかを徹底的に考えた
なかなか時間が解決しない。
ふとした瞬間に思い出しては、私を落ち込ませたり、怒りにとらわれてしまう原因となる存在の【嫌いな人】。
時間が解決しないなら、徹底的に自分の気持ちと向き合って、折り合いをつける・落とし所を見つけるしかないと思った。
なぜ【嫌いな人】を嫌いなのか?
私は、いくつもの理由をあげることができる。
それも感情的なものではなく、理路整然とあげることができる。それくらい、私が【嫌いな人】を嫌いだと思う理由は明確である。
きちんと理論立てて『嫌い』だということを証明できるほど、嫌いだ。
断っておくが、好きの裏返しで嫌いといっている類の『嫌い』という感情ではない。
うまく言えないが・・看過できない類の『嫌い』。そういう人間(【嫌いな人】のような人間性)が嫌い、という感じかな・・?
どうしたって相性というものがある。
(おそらく【嫌いな人】も私のことを嫌いだったはずだ)
嫌いな理由を明確にした上で、なぜ未だに『嫌いな人』の存在を引きずってしまうのか?について考えた
もう会うことはないのだし無関係なのだから、さっさと忘れてしまえばいい。
それなのに、【嫌いな人】の存在を引きずってしまうのは、なぜだろう?
私は、嫌いな人間について「その存在を認めた上で放っておけ」という考えがいつも根幹にあるつもりだった。だが、【嫌いな人】については一筋縄ではいかず、上記のような考え方ができずにいた。
恥ずかしい話だが、たぶん、私は、【嫌いな人】に自身のプライド(自尊心)を傷つけられたという、被害者意識・被害妄想があるのではないか?と考えている。
当時、【嫌いな人】は、友人や知人・環境を引き合いにして、マウンティングしてくる傾向が強かったが、それに対して、私は特に応戦もせず、ただひたすら聞いてきた。
私は自分自身のことを積極的に話さなかったので、私という人間をよく知らないはずの【嫌いな人】だが、なぜか根拠なく私を下だと認定してマウントをとってくることが、いつも気になっていた。
とはいえ、自分の感情を抑制し、【嫌いな人】のマウンティングに無反応でいることを心掛けていた。
そういった何気ない会話の中で、幾度となく私のプライド(自尊心)が傷つけられたが、様々な要因・立場から、思っていることを伝えることをしてこなかった。
過剰に感情を抑制し、我慢してしまったように思う。
ゆえに、今になって、それが苛立ち・怒りとなり、【嫌いな人】の(権力に媚びた・・)全開の笑顔と共に思い出してしまうのかな?と。
当時、【嫌いな人】に対して、なかなか言いたいことを言いづらい環境ではあったが、もう少し思ったことを率直に言えたらよかった。
今なら【嫌いな人】のマウンティングに、気の利いた応戦の文言があれやこれや思いつく・・。でも、当時はそれをせず(できず)、過剰に感情を抑制してしまったため、なぜか今ひとりっきりで感情を爆発させているという状態だ。
もし、適度に【嫌いな人】のマウンティングの数々に応戦できていたなら、これほどまでに感情をこじらせなかった気がする。自分の気持ちを我慢して抑制しすぎたことがよくなかったと、振り返って思う。
そうか・・
要は、【嫌いな人】に、なぜか下に見られて発された言葉の数々に、実は心がズタボロになってたんだな、と今になってようやく理解できたってことだ。
自分としては、円滑な関係を築くためにそれでいいと思っていたのだが、【嫌いな人】の「私がアンタより上」という典型的なわかりやすいマウンティングの数々に、私のちっぽけなプライド(誇りや自尊心)はズタズタだったんだな・・とわかった。
以前、マウンティングについて以下のような記事を書いた。
【嫌いな人】の場合は、明らかに相手(私)を下と認定し、自分が上だと誇示するマウンティングだと理解している。
記事に書いたような、受け手の解釈の違いでマウンティングと感じてしまうたぐいのマウントではなく、まごうことなき典型的な私に対する「マウンティング」だったと。
自分はそもそもプライドは低いほうだし、下扱いされても特に気にしてはいないと思い込んできた。マウンティングされても、冷静に状況を俯瞰できているはずという自負もあったかもしれない、恥ずかしながら。
だが、時間が経ってもずっと思い出しては落ち込んだり、怒りの感情に包まれるということは、思った以上に傷口が深かったんだなと、今なら客観的に振り返ることができる。
文字にして書き出すと、気持ちの整理ができる
こうやって、ブログに書いていると、かなり気持ちは整理できつつある。
気持ちを整理しつつ辿り着いたのは以下のようなことだ。
今回の私のようなケースで、なぜ【嫌いな人】を思い出して落ち込むのか?という最大の理由は、
私のちっぽけな、でも絶対に守るべき自尊心を、幾度となく傷つけられたから
だということが、わかった(ような気がする)
私の至らなさよる被害者意識・被害妄想の側面もあるかとは思う(どうも私は他者の言葉に敏感に反応しすぎて、その真意を考えすぎてしまうところがある。そこはよくない点だと常々感じている)
そうだとしても、【嫌いな人】の言葉は私を幾度となく傷つけた。そして、当時、過剰に感情を抑制し我慢し続けてしまった結果、今になっても怒りはおさまらず引きずっている・・
そういうことだ。
なら?取るべき行動はなんだ?
それは、【嫌いな人】によってズタズタにされた自尊心を取り戻すことだ。
それしかない。
自尊心を取り戻せ!
もう関わりのない【嫌いな人】の言動を思い出しては、落ち込む。怒りの感情に包まれる・・。
なぜそうなってしまうのか?徹底的に自分の感情と向き合ったあとには、自尊心を取り戻すしかない。自己憐憫にとらわれている場合ではない!
つまりは、私自身が日々を充実させることにエネルギーを注ぐことでしか、解決策はない。
【嫌いな人】にズタズタにされたプライド(自尊心)は、彼女がいない場所で、私自身が取り戻す努力と行動をし続けることで、回復するはずだと信じたい。
まだまだ時間がかかりそうだ。
ただ、私は、私のために、私を救うために、行動するしかないと思う。
誰かを落としたところで、自分が上にあがるわけではない。でも、【嫌いな人】は、私を落とすことで、自分をあげようと試みるタイプの人間だったのだと思う。
運悪く、【嫌いな人】の自己顕示欲や承認欲求を満たす餌食になってしまったのかもしれない。お互いの関係性や立場上、【嫌いな人】にとって、私はマウントをとりやすい相手だったのかもしれない。
こうやって、長々とブログに心の変遷を書いてきたことで、かなり気持ちの整理ができた。とにかく書いて気持ちの整理をするということは、かなり有効だと思う。
【嫌いな人】に対する負の感情には、ここらへんで区切りをつけたい。
先へ進もう。
被害者意識だの自己憐憫だのにとらわれがちになって、それを理由に何もしてないグダグダな自分が、一番どうしようもない。
嫌いな人間の呪縛から逃れるためには、自尊心を取り戻すことだ。
自尊心を取り戻すために、日々を充実させることにエネルギーを注いでいこう。