私は私を疑い続けるぞ
ここ1ヶ月くらいかな?
ちょっと自分の中で革命が起きた?と思うくらい、思考をかきまぜられている感覚があるんだ。
それを考え出してから、急に風景が変わって見えた。日々の何気ない生活の中で、以前なら何とも思わなかったことが、まったく別の姿で目の前に説得力を持ってあらわれてきた、というような感じかな?
「そうか、そういうことだったのか・・!」と。
いや、驚きだよ。
さらに、自分がこれまで至極当然に”疑う余地などない”と思っていたことについて、いやいやいや・・何周か回って、「あれ?ひょっとしたら当たり前ではないかもしれない?」と思い至るようになってきている。
何のこと言ってるのか、全然わからないですね?
でも、ここ最近の「ああ、そうか、あれもこれも、そういうことかー!!!」っていう気づきの連続があまりに強烈だったので、まあ、備忘録的な感じでとりあえずブログに書いてみている。
知ろうとするから、知ることができる
ということを、否応無しに体感している最中だ。
いや、よかった、気づけて。さらに深めていければいい。これを考えていった先に、何かある気がするぞ。そして、気づいてしまったからには、もう以前のようには生きていけはしない。
そして、楽になれるだろう。過去のあらゆるモヤモヤの源泉がやっと理解できそうな気がしている。手を伸ばせば指先が触れるくらいのところまで。
(と同時に、きっと苦しくもなっていく。とても複雑な気分だ・・)
様々な事象について、多数の人たちが賞賛していて自分も理解できるという感覚がある一方で、手放しで肯定できないことがあった。なぜ肯定できなかったのか?うまく言葉にできないのだけど、得体の知れない嫌悪感が渦巻いていた理由がようやくわかってきた。
また、あるひとつの事柄について語るとき、1周目でAという思考になることと、3周まわってA→B→Aという変遷を辿ること、さらには7周回って、A→B→A→C→B→D→Aというように最終的にAに至るのとでは、同じAという答えを導き出したとして、思考の深度がまったく違う。
自分の思考の浅さを恥じると同時に、そうだったのか、そこに気づけていなかった、それを知ったから次にそのように思えるんだ、という思考のプロセスみたいなものが大事だなと痛感している。
そして、過去に相いれないと思った考えでも、相手がそこに至るまでどの程度思考したのだろう?と思い返したりしている。ひょっとして私がまだ3周目程度のとき、相手は9周くらい回って導き出した答えだったのかも?
だとしたら、私はやはり浅かったかもしれないなあ、とか。
つまりは、知れば知るほど、変わっていく。知らないでいることは差別的だとすら思う。そうだ、無知は、知らないということは、あらゆることで差別につながる。だって、知らないから、誰かを何かを簡単に否定できる、断罪できる。踏みつけて傷つけることができる。
だから、自分はもっと知っていきたいし、偶然自分にフィットした(と思える)考えに出会ったとき、もうそれでいいやと、そこで思考停止してはいけないと強く思った。
私はまだ、ほんの数周まわっただけで、まだ、まだ考えていなかったかも?と。最適解と思ったものが違うのかも知れないと、疑い続けたいと、そんなことを考えてる。
なんのこっちゃわからない内容になったが、まあ、最近はそういうことを考えているっていうどうでもいいお知らせだね。
私は私を疑い続けるぞ。知ること、考えることをやめないために。