自分を評価してくれる・認めてくれる相手を好きになる
ちょっと以前の記事↓の続きっぽい感じなのだが、誰しも自分を評価してくれる、認めてくれる人をより好きになるんじゃないかな。
無下にされて、軽んじられて、下にみられて、それでも、そんな相手のことを好きだと思うか?
いや、私は全然思わない。相手が私に対して、なめた態度をとってきたり、見下してきたり、軽んじてきたり・・ということが続けば、私は、当然、相手を嫌いになっていく。
出会ったときは、好きでも嫌いでもなかったとしても、次第に相手が私に対してマウントをとってくるようだったら、そんな相手とは関係を断つ。仕事などでどうしても関わりが避けられない関係なのだとしたら、とにかく必要最低限の接触のみで距離を保つようにする。
私は、私を貶めたり見下したり軽んじたり見くびったりしてくる相手とは、基本、距離を置くようにしている。
それは当たり前の前提なのだが、もうちょっと先を考えていくと、
やはり、私を認めてくれる相手をより好きになる。
たとえば・・そうだな、10年以上前の話になるが・・
当時、私はグループ展などで自身の作品を出品したりしていた。仕事を通して知り合い、わりと嗜好などが近めだなと感じた4歳ほど上の女性がいて、そういった展示の際には、DMを送ったりしていた(ダイレクトメッセージじゃないよ、ハガキのことだよ)
すると彼女は度々、足を運んでくれるので、それはありがたいし嬉しいなと感じていたのだけど、一度も私の作品についての感想をもらえたことはなかった。肯定も否定もなかった。ただ、なんというか、言外に、私の作品を認めていないというのは、実は感じ取っていた。
例えるなら、「この額縁いいね!」といったニュアンスなのだ、彼女はいつも。肝心の絵画はスルーし、その周辺のものを褒める。
彼女が美術などに造詣が深くない人間ならさほど気にならなかったが、自分と嗜好が近めなこと、そして知識もある人だとわかっていたからこそ、何も感想がない、それどころか、無関心のようにすら感じられることが、いつも気になっていた。
あまりにそういったことが続いたのと、他にもちょっとしたすれ違いが重なって、次第に疎遠になっていってしまった。
彼女は人付き合いにマメな人だったので、お知らせを送ると展示などに足を運んでくれたりするのだけど、おそらくそれはコミュニケーションの一環だったのだろう。私の制作物に対しては無関心で興味がなかったのだと思う。
わざわざ時間を割いて展示を見に来てくれるんだからそれだけでありがたい・・もちろんそう思う。でも、何か認められてない感というのはいつもつきまとっていて、ああ、この人はただの人脈つなぎ的な感じで、私と付き合ってんだなと思ったら、ちょっとした寂しさがあった。
まあ、平たくいうと、私は私の作品をやっぱり認めてほしいし、否定的だとしても何か反応がほしいし、無関心というのはなかなか辛いものだったんだよな。
ちょっと振り返って若さゆえとも思ったりするが・・。今の年齢なら、そういった相手に対しても、もうちょっとうまい付き合い方ができる気もしているけれども、どうだろう?
つまりは、やっぱり自分を何かしら認めてくれる相手を私は好きになる。なんか身勝手で自分本位と思うのだけど、どうしてもそうだな・・。
でも、誰だってそういった側面はあるのじゃないか?
だって、自分を基本的な部分で認めてくれていない相手とは、話していても虚しいよ。それで、やっぱり私も相手を認めていないといけないと思う。
でもまあ、ここがまた私の屑なところで、私は認められたいとか言うくせに、わりと相手に興味を持てないことがあったりするんだよ。
屑だろう?
せっかく交流のある相手に対して無関心なことがあるんだ。裏返せば、私が相手に無関心だからこそ、相手も私に無関心なのかもしれない?私の方こそ、ちゃんと相手を認めていないのかもしれないな・・。
そういうことを続けていたら、あっという間に中年になってしまい、未だに他者とうまく関係が築けないままなんだ。
もう手遅れかな・・と最近は思いはじめている。
ひょっとしたら自己愛がヘンに歪みすぎてしまったのかもしれないと思う。もう誰かとちゃんとした関係を築きたいということそれ自体を諦めて、ひとりで楽しく生きる道をスッキリとスッパリと歩んでいくほうが、私は幸せなのかもしれない。
でも、まだそこへ振り切れずに、ああだこうだ言っちゃって、どうしようもない屑っぷりなんだよ。
もういっそ、達観してそちらの境地へいければ、私の悩みなど、かなりの割合でなくなるとすら思うほどだ・・。