誰かの悲しみを知ったとき、私の悲しみでもあると思えるように

川崎の殺傷事件から約一週間ほど経った。あまりに痛ましい事件だ。亡くなった方々や遺族の想いを想像すると、あまりに悲しく言葉にならない。こんな風に、命が奪われていいはずがない。

この事件の一報を受けて、まだ犯人がわからなかったとき、すぐに浮かんだのは、「犯人は無職なのでは?」ということと、子どもたちが襲われたということから、池田小の事件を彷彿とさせた。

思ったとおり、やはり犯人は「無職」で、「引きこもり」傾向があったということだった。犯人の生い立ちは複雑で、50年ほどに渡る壮絶な孤独を想像したとき、身震いがした。

当然、犯人が犯した罪は許されないもので身勝手だと感じる一方で、犯人の心の闇を同じ視点で見つめようとしたとき、どうしようもなく悲しかった。孤独の深淵をのぞいたような気がした。

もちろん、生い立ちが複雑で不遇な日々を送ってきたとしても、犯罪などに手を染めることなく、腐ることなく、希望を見出して生きている人たちはたくさんいる。だから、すべてを生い立ちや境遇のせいにはできない。だけど・・ただひたすら悲しかった。

以前も少し書いたことがあるが、私は、「犯罪者は社会が作る」という側面が少なからずあるのではないか?と考えてきた。

もちろんそんなことを考える余地もないような残虐な殺人鬼も確実にいるように思う。その一方で、”社会”という枠組みの中で、追い詰められて犯行に至った事件も多数あるように感じる。

誰かが手を差し伸べていれば・・言葉をかけていれば、その”誰か”の積み重ねが、犯罪者を犯罪者にしなかったかもしれない、と思うことがある。

また、最近は、事件の被害者であるにもかかわらず、被害者に隙や少しの落ち度があった場合、自己責任で叩くような論調が目立つ。

そういう言葉を目にしたくないと思うのだが、ネットでいろんなニュースなどを読んでいると、たびたび出くわす。

いつから人々はこんなに狭量になったのか。少なくとも、私が子どもの頃は(インターネットなどなかったから市井の人々の憎悪などを知る手立てがなかったせいもあるけど・・)もう少しいろんな事象に対して寛容だったイメージがある。

最近、たまたま小谷美紗子を聴き返していたら、歌詞のフレーズにその通りだなと感じた。

他人の悲しみを知ったらすぐに 自分の悲しみでもあると思う優しさがほしい

小谷美紗子/見せかけ社会

私自身、ちょっとした自分の悲しさを誰かに語ったとき、一蹴されるという経験はよくあった。そういったことの積み重ねで、より他者に自分の本音を話さなくなった。
きっとこの人も理解できないだろうと、話しても意味がないだろうと、最初から誰に対しても諦めからスタートするようになった。

その一方で、果たして自分は誰かから悲しみを語られたとき、真摯に向き合えていたか?その悲しみを深く想像できていたか?と思うと、そうではなかったなと思う出来事もある。振り返ってみて、きっとあのときの返答は、ああじゃなかったといった後悔などもある。

だから、ネット上でも、リアルな人間関係でも、誰かが発した言葉を「仕方ないじゃん、自己責任じゃん。世の中にはもっと大変な人なんてごまんといるよ」などといって切り捨てたり、「あなた程度の苦しみなど大したことない」と一蹴したりして、悲しみや苦しみを抱えている側の人間の落ち度を探して、勝ち誇ったり断罪したりする人たちを見るにつけ、悲しさとやるせなさを感じる。

誰かの悲しみや苦しみに真摯に想いを寄せるには、やはりある程度安定してバランスが取れている心理状態であることが重要かもしれない。

誰もが不安定で怒りや苛立ちや悲しみを抱えているから、自分とは異なる誰かの悲しみに寄り添う余裕がなくなる。

一体どうすればいいんだろうか。どうしたら、誰もが誰にも優しくなれるんだろうか。

心掛けたいのは、誰かからのメッセージを感じたとき、すぐに結論づけて一蹴しないこと。言葉をないがしろにしないこと。耳を傾けること。なぜそのような言葉を発するのか、バックグラウンドを考えること・知ること。

そういうのが大事なのかなと思う。きれいごとかもしれないけど、そういったことの積み重ねなのではないかなと感じる。

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↑小谷美紗子の歌詞は刺さる。今聴いても決して色褪せない1枚。

考える日々

Posted by しがらみん