「もう誰も探さないよ」だなんて言ってみたい
2020年がはじまった。
さて、自己満足全開で書いているブログだが、今年の2月で2周年を迎える。なんだかんだで細々と続いている。ブログをはじめた頃のような頻度では更新できていないけど、今年もあれこれ書いていこうと思う。
2020年はもっと自分に正直に生きられたらいい。
昨年の終わり頃から考えていたのだけど、やはり私は他者との関係を諦めていないみたいだ。
以前の記事でも書いたけども・・。
1年半ほど前に書いた記事だけど、あれから何もかわっていない。職場という環境は変化していっているが、新しい縁なども何もない日々が続いている。
新しく誰かと出会っても・・
昨年は、職場が数回変わったことで、新しく知り合った人たちがたくさんいた。
でも・・
新しくたくさんの人数の人たちと言葉を交わす機会があっても、それ以上、お互いを知ったり親しくなっていくということがない。
職場という空間だからこそ、お互い適度な距離感を保ちたいということもある。あと年齢的な部分も大きいかもしれない。若い頃だったら、仕事を辞めてからも交流が続いた人たちがそこそこいたのだけど、30代中盤くらいからそういうのがなくなってしまった気がする。
それでも、たくさんの人と言葉を交わす機会があるのなら、せめて一人くらい気の合う人が出てきてもいいのになあ・・。
以前からずっと気づいているのだけど、それはやっぱり私自身に問題があるような気がして仕方がない。私は、いつもどこかですごく他者と線を引いて接するようにしているからだ。あるときは意識的に、あるときは無意識に。
それがいけない。せっかく多数の人と知り合う機会があっても、どうしても私自身が閉じている。それがまずい。
表面的なコミュニケーションのその先へ
昨年から働きはじめた今の派遣先で、当初想像していたよりも、様々な立場の社員の方々とコミュニケーションが必要で、話す機会が多いのだけど、ついつい悪い癖で、相手の何気ない一言からその人の人間性や思想を推測してしまうところがある。
もうちょっと寛容になれと思うのだけど、どうも引っかかる言葉があったりすると、無意識のうちにバイアスをかけてしまう。
それで、「ああ、この人は自分とは関係ない人だ」などと決めつけてしまう。ひょっとして、もうちょっと話したら合うところがあるかもしれないのに、わりと早い段階でシャッターを下ろしてしまいがちだ。
よくない癖だが、そういうところがあるのを自覚していて、もうちょっと違う視点で相手と向き合いたいと思っているのだけど、なぜか自然にそれができない。
私は、表面上のコミュニケーションはわりと適度にできるほうだ(←自分で思ってるだけで実際はそうでもないかもしれないが・・)
でも、それは文字通り”表面的”であって、実際のところ、心のどこかで他者を全然信じてないのだと思う。
なぜそうなってしまうのかよくわからない。もっと素直にストレートに、ひねくれることなく他者と向き合えればいいと思うのだけど・・。
誰かに出会いたい
毎年ずっとそう思っているのだけど、今年は、男女問わず、良い縁を引き寄せられたらいい。自然に楽しく話ができるような波長の合う相手がいたらいいなあって、心から思ってる。異性でも同性でも。
ただただひとりの人間として、6、7割くらいの本音で楽しく会話できるような人と出会いたい。
それにはやっぱり自分がまず心を開くことだなと常々感じているのだけど・・。それがむずかしい。
2020年は『誰かに出会いたい』
他にもたくさんあるけど、とりあえずは、それが一番かな。毎年同じことを考えている気がする。
40歳になったときも似たようなこと書いてたなあ。
↑この記事では「ちょっとの親しさの知り合いを作りたい」みたいなことを書いてるが、今の実感としては、やはり本音は「ちょっとの親しさを越えたその先の誰か」を探しているのだと思う。
ipod touchでシャッフルして音楽を聴いてたら、fayrayの『願い』が流れてきた。
この曲の歌詞のように「もう誰も探さないよ」だなんて、言ってみたいものだ。
絵本で言うならば、『100万回生きたねこ』みたいなことなんだよなあ。