どこかで誰かが君のことを想ってる(かもしれない)
親しい友人や、結婚したなら夫や妻となった相手など、誰もが誰かの物語の主要な登場人物・メインキャストになる。
前回の記事で、私はついぞ誰かの物語のメインキャストになることはなかったことについて書いた。
そんなことをあれこれ考えていたとき、ふとあるフレーズが脳裏に浮かんできた。それは「どこかで誰かが君のことを想ってる」という言葉だ。
5年前の記憶
私には15年以上やり続けていることがあることは、以前の記事で触れた。
よろしければこちらをご一読していただけると幸いだ。
それにまつわる5年ほど前の思い出について記そうと思う。
当時、勤務していた職場は、オフィス街の高層ビル群にあった。職場のビルには小規模な書店が入っていたのだけど、昼休み、そこでいろんな本を立ち読みするのが日課だった。
そこで、ある雑誌を立ち読みしていたら、懐かしい名前に出会った。
このひとのことを知っている・・!
そのひとには直接会ったことはなかったのだけど、作品を拝見したことはあった。作品は心惹かれるものだった。知人を通して、こんなひと、というのを聞いたことがあり、一方的に親近感を抱いていたのだった。
ところが、よく彼女の作品を拝見していた場所から、あるとき彼女の作品が姿を消した。それからそのひとの作品を目にすることはなくなってしまった。作ること(描くこと)をやめてしまったのかな?と思ったりしていた。
そうこうしているうちに、私自身も仕事が忙しくなったりして、その場所から足が遠のき、10年ほどが経過していた。
それでも、ときどき、あのひとまだ今も作ってんのかなあ?と彼女のことを思い出すことがあった。
だから、偶然パラパラめくっていた雑誌で、彼女の名前を見つけたとき、驚いて懐かしくて、妙に嬉しかった。
そのひとが、ずっと描き続けていたことに、じわっと感動した。
なんだよ、やめてなかったんじゃんかよ、と。
そんな5年ほど前の記憶を遡っていたら、前述のフレーズが心に火を灯すのだった。
会ったことないのに共感する
「どこかで誰かが君のことを想ってる」
映画監督の橋口亮輔の本で目にした言葉だった。
橋口亮輔は「二十才の微熱」で鮮烈デビューし、自らがゲイであることをカミングアウトしている映画監督だ。のちに「ハッシュ!」で世間一般にも広く知れ渡ったイメージだ。私は、10代後半から20代を通して、ジェンダー関係の本や映画などを、しばしば読んだり観たりしていたので、自然と橋口監督のことも知った。
「どこかで誰かが君のことを想ってる」というフレーズは、その著書を読んでいたときに出てきた言葉で、当時、とても心に響いたのを覚えている。今でも何度となく思い出す。
そう、つまりは、思いもしない誰かが、思いがけない誰かが、実はどこかでアナタのことを想っているかもしれないよ、ってことなんだ。 現に、前述したエピソードのように、私は会ったこともないひとのことを時折思い出して、彼女のことを「想っていた」と思う。
そのひとのことだけじゃない。実際には会ったこともないけども、ネットを通して、作品を通して存在を知り、心を揺さぶられるような、生き様に惹かれるような、そんなひとたちが幾人かいるのだけど、彼らのことを折に触れて思い出す。
会ったこともないのに、消息が気になるひとたちが、そこかしこにいる。そうだな、なかには20年くらい消息を気にしてるひともいる。あのひとも、このひとも・・。
勝手なイメージの肖像の幻燈が、グルグルとまわっては光のチラチラと共に消える。 そうだ、これだ。
これがまさに、橋口監督の「どこかで誰かが君のことを想ってる」ってやつなんじゃないか、と。
だから、私が、誰かの物語のメインキャストになれないのだとして、それでも、どこかで誰かが君(私のこと)を想ってる、かもしれない!と思えなくもない。
そんなことを考えてたんだ。