”最大多数の最大幸福”が正しいのか

私は自身がマイノリティ側の人間という自覚がある。それもなぜか子供の頃から漠然とあり、40代に突入した現在でも、日々、マジョリティ側の人間との差異に悩み、なぜ違うのかということを考え続けている。

振り返ってみても、自分自身がマジョリティ側だったという記憶があまり見つからなくて、どちらかというと、周りと何か違っておかしいのではないか?と悩み続けた学生時代だったし、大人になってからも、常に心の奥底で、いわゆる”普通”になれなかった自分に、後ろめたさとか、どうしてそうなんだろう?という悲しさみたいのを感じてきた。

きっと多数側にずっといられたなら、この世は生きやすく、もっと楽なものだったのではないか?と。当たり前のように多数決の多数側にいられる人間を、羨ましく思ったりもする。

最近『プラスチックの恋人』という小説を読んだ。

プラスチックの恋人

早川書房刊行のSF小説だが、なかなかにセンセーショナルな内容だ。いわゆるロボットと人間は愛し合えるのか?といったようなことがテーマだ。

その一方で私は、もうひとつのテーマについて、「表現はどこまで規制されるべきか」「誰かにとって楽しみなものは、また別の誰かにとって苦しみである。それらをどこで線引きするのか?」ということなんじゃないかと感じた。

表現の自由と言いながら、誰かを虐げたりすることによって完成した創作物、他者を差別するような創作物は、芸術として成り立つのか。また、その境界線はどこだ?

ある少数派の人々にとっては苦痛を与える表現が、世の大多数の人たちにとってはなんの影響もない(むしろ+の感情をもたらす)としたら、少数派の自由が制限されることはやむを得ないことなのか? ”最大多数の最大幸福”が正しいのか?

かなり考えさせられた。

表現の自由の名のもとに作り出されたサービスや広告や小説や音楽や映画やアニメやあらゆる創作物について、たとえ合法だったとしても、倫理的に、モラル的に、NGだというものは多い。

ただ、それらを徹底的に締め出していくと、新しい創造物が生まれなくなる。言論統制につながりかねない。その線引きをどうしたらいいのか。

私は、そもそも誰かを何かを差別したり嗤ったり貶めてたりして作られたものを、表現の自由とは呼びたくはない。明らかな差別的表現は、芸術でもなんでもない。

お笑い芸人によくあるような、誰かの身体的・外見的特徴などをあげつらって笑いをとるような、そんな下劣な行為は、お笑いでもなんでもない。ただの大人の公衆の面前でのいじめでしかない。

でも、意図せず、誰かを傷つけてしまうとき・・それは、規制されるべきなんだろうか。

非常に難しい問題だ。

『プラスチックの恋人』での見どころは、主人公と黒マカロンさんとの終盤の対話なんじゃないかな。個人的にはそこが一番もりあがった。黒マカロンさんの言葉に心が引き裂かれそうだった。

また、マイノリティ側の人間だと自覚している私自身でも、すべてにおいてそうではなく、別の事柄や事象においては、マジョリティ側ということもある、ということをまざまざと突きつけられた気がした。

私にとって当たり前であることについては、多数だとか少数だとかなかなか考えない、見えないことが多い。でも、ひょっとしたら、私にとっての当たり前が、他の誰かにとって当たり前ではないことは往々にしてあるということを、常に心の片隅に置いておきたい。

考える日々

Posted by しがらみん