輝く中年になるために
私が思い描く、中年の究極の理想的生活がある。
『植物男子ベランダー』というドラマで、田口トモロヲ演じる植物を愛でるバツイチ中年男の生活が、まさにそれだ。
今までBSプレミアムで3シーズン放映されて、途切れ途切れになりながらもかなり観ていた。なかなか実験的な作りになっていて、マニアックな要素がありながらも、クスっと笑ってしまう部分も多く、とてもユーモアに富んだドラマだと思う。つい先日、地上波でも放映されはじめ、以前も観たことのある話をまた観てしまった。
↑原作はいとうせいこうだ。
この主人公の暮らしぶりは、ある意味、私の理想だ。都会の片隅のマンションのベランダで、好きな植物を好き勝手に育てる。仕事はフリーライター。時間の自由もきき、気の向くままに馴染みの花屋に向かう。最高じゃない?
なぜ思いのままに生きられないのか?
私も、都会の片隅の部屋で、好き勝手に毎日を過ごして、それらしい仕事をほどほどにして、気侭に生きたい。
が、それをできずにいるのは、なぜなのだろう?今からだって、また都内で一人暮らしをはじめられる。実家に戻ってから、せっせと貯めた幾ばくかの貯金もある。慎ましいながらも一人暮らしを維持することは可能だろう。でも、それを再びしようとしないのは、なぜだ?
わかってる。もうそんな気力が残されていないことを。20代のあの頃、無知でパッションだけは無駄に溢れていて、先々に必要なお金のことなど考えたことはなかった。ただただすぐ目の前しか見てなかった。無我夢中だった。当時、すでに一人暮らしの貧困女子の括りに当てはまってしまうような低収入だったと思うが、それをさほど気にしたことはなかった。無知っておそろしい。無知ゆえの溢れ出る情熱を放出しながら、まさに、全力疾走の日々だった。
限界が見えてきた
が、30代前半で実家に帰ることを決めてからの自分は、あの頃の情熱はすでになく、ただ毎日を無為にやり過ごすだけ。今もそれなりに興味のあること、好きなことはあるけども、あの頃のような熱量を持って臨むことはできなくなっている。
それは、自分自身の限界が見えてきたから、なのかもしれない。20代〜30代前半の頃は、まだ何者にもなっていない自分は、何者かになれるかもしれない可能性があったように思う。それは誰しもがそうだ。30代前半くらいまでは、まだ未分化の自分を持て余していても許される年齢だと感じる。が、40歳を目前にした現在、自分の限界値を否応なく突きつけられている。
ああ、自分は所詮この程度か・・というような。
自分を救うのはいつだって自分だけ
いや、ここで自分を見捨てたら終わり。自分で自分を見限るな。自分を救うのはいつだって自分自身。そうわかっていても、やはり、年齢による限界値は、確実にあると思う。残念ながら、もう決して若くなく、かといって、年をとったと諦念するには中途半端な年齢だ。アラフォーは、苦悩の季節であるなあ。30前後の苦しさとはまた質の異なるものだ。
振り返ってみると、20代の頃は、まさか自分がそんなことを考える日がくるなんて思いもしなかった。
そうか、「これが若さか」ってやつだ。
年齢を重ねるってそういうことなんだな。ゆえに年長者の発言って重みがあると感じる。私が知らない、まだ見ぬステージをすでに経験されている方々ゆえの言葉だろうから。この先、さらに年を重ねるにつれ、どうしようもない何かと共存しながら、折り合いつけながら、生きるのだろうなあ。
輝く中年になりたいから
ついつい、物事を深刻に考えて、堂々巡りになることがあるが、もっと気楽でいいんじゃないかなあ。自分はそういうところある。すぐ深刻ぶっちゃう。輝く中年になるために、やはり私は私を信じて、私自身を救うしかないのだと思う。
年を重ねて、輝き出すひとたちもいる。おそらくそのひとたちは、ずっとずっと積んできた。高齢になってから、ようやく花開いた、機が熟した、ということなんだと思う。きっと、彼らは腐ることなく日々を生きてきたはずだ。
わたくし、ついつい腐る。腐りがち。しょっちゅう腐る。どうした?ってくらい腐る。腐臭まみれ。でも、腐っている場合じゃないよな?
とりあえず、日々できることをやっていこう。輝く中年になるために。そう、キラキラじゃなくていい、板状のチューインガムが包まれている銀紙?あれってちょっとくすんだような銀でしょう?目指すはあれくらいの輝き。そんな中年を目指すっ。