反省しないし罪悪感を抱かないし後ろめたくならないし後悔しない【結婚しない・子供を産まない女性】

私は決めたんだよ。

罪悪感を抱かないし、後ろめたくもならないし、反省だってしないし、後悔もしないと。

そもそもどうしてなんだ?

なぜ、私は、罪悪感を抱き、後ろめたさを覚えたりするんだ?

いや、私だけじゃない。大半の独身や子供のいない女性たちもそうだ。後ろめたさどころじゃない。程度の差はあれど、子供を産まなかった(産めなかった)ことを反省して後悔して苦しんでいる。罪の意識に苛まれている。

なんだ?

一体なんなんだ?

なぜ、我々は、反省して後悔して苦しんで生きろと責められてんだ?誰だよ。そんな風に我々に「一生苦しめ」と圧力を、呪いを、かけてくるのは。

私たちは、結婚しなかったことで、子供を産まなかったことで、後悔しなくていいし、罪悪感を抱かなくていいし、死ぬまで苦しんで生きなくていい。

私自身の話をしよう。

もともと、私は、”世間が正しいと認める人生”について、それほど深く考えたことがなかった。それでも、大学進学あたりまでは、そこそこ順調だったかもしれない。就職氷河期世代ど真ん中の2001年卒。働きはじめてからの履歴書はぐちゃぐちゃで、職業に一貫性がなく、結婚もせず、現在も派遣社員として明日が見えない日々を送っている。

親から結婚しろと言われたことはないし、親戚からの圧力もまったくなかった。

子供の頃、近所のお姉さんが結婚すると聞いて、しかも職場で出会った相手と聞いて、なぜそんなに簡単に身近な人と結婚してしまうのだろう?と子供心に本気でクエスチョンで不思議だった。そんとき、幼稚園くらいだった自分の純粋に心底不思議に思う感情を今でも鮮烈に覚えている。

幼稚園児の時点で、なぜ大人になったら結婚するんだろう?という疑問がすでにあったのは、今振り返ってみても驚きだ。なんだか今の自分の原点の感情かも?

両親は、そういった点では、いわゆる社会規範を押し付ける種類の人たちではなく、私は、比較的自由にのびのびと子供時代を過ごしたように思うんだ。だからこそ、成長していくにつれ、世間の常識と自分の常識が擦り合わない場面に度々出くわし、戸惑うことが多かったかもしれない。

大人になるにつれて、結婚してそれに伴う日常生活の場面を想像したとき、それほどそれらを欲してはいない自分に気づいたりもしていた。

そんなんだから、そもそもいわゆる世間様、社会が設定する幸福ルートに乗る人生を、もともと深く考えていなかったのだけど、30前後くらいになってくると、やはりマジョリティじゃない自分に悩んだし、40代に突入した今でさえ、いわゆる世間の正解とされる生き方をしていない自分に後ろめたさを感じてきた。”普通”になって楽になりたいと願ったりもした。

だけど、

なんかもう、そういうのいいかな?って今、思っている。自分で自分に呪いをかけるのをやめたい。

今まで、マジョリティの辿る道を辿れなかったことに対して、罪悪感や後ろめたさを感じてきたが、少しずつゆるやかに、呪縛から開放されつつある。

そういえば、自分、もともと、それほど、妻にも母にもなりたい願望なかったな、と。

でも、世間の言う人並みとか普通になったほうがいいという呪いというか刷り込みというか、そういうものが無意識レベルで染み付いてて、そうなれない自分はダメだ異常だ・・と苦しくもあった。あと、やっぱり周囲のかつての友人や知り合いが、当然のように通常ルートに邁進していくのを目のあたりにするにつけ、自分の異質な感じにザワザワするみたいのはあった。

今40代になって、もうそういう通常ルート(世間の正解ルート)を歩んでいるかつての友人たちとは自然消滅してしまった。だから、通常ルートを歩んでいる人たちと深く話す機会というのがほぼないので、具体的に自分と対比することがなくなって、楽になった。

今の自分そのものを、ただただそのままを受け入れられるようになりつつある。

そうなってくると、なんかもう、通常ルートを歩まなかった、歩めなかった自分を、それほど卑下したりする必要もないかなと思えてくる。

それでも、社会は、結婚しない、子供を産まない女を人間として扱わないし、ことあるごとに、反省して、後悔して、罪悪感を抱きながら、死ぬまで苦しんで生きろと、強要してくるわけだ。無言の圧力をかけてくるわけだ。

そういう発言はナチュラルに日常に蔓延っているし、そのたびにけっこう心がやられるけども、それでも、なんか・・

いいや

って思えるようになりつつあるなあ。ここらへんの感情は、もうちょっとわかりやすく深めて書いたりしていきたい。

それから、なぜ世間は、私のような結婚しない、子供を産まない女性を責め、いない存在として扱い、罪悪感を植え付け、後悔して生きろと呪いをかけてくるのか?という根源について考えていくにつれ、いろいろわかったことがある。

そうだ。我々に呪いをかけることで、都合がいいのは誰だ?

この社会の仕組みの中で、結婚しない女は、子供を産まない女は悪だ無価値だと刷り込みをすることによって、一番、もっとも得をするのは誰だと思う?

(例えば、結婚しなかったり子供のいない男性は、結婚しなかったことを、子供を持たなかったことを、女性のように世間から責められることがあるか?「子供を持たなかった男性を税金で面倒を見るのはおかしい」なんて言説には決してならない。でも、女性の場合は「子供を産まなかった女性を、将来、私たちの子供が支えることになるなんておかしい」と言われたりする。働く独身女性が納めている税金が、児童手当など子育て世代に使われている現実があるにもかかわらず、そういった発言は溢れている。なぜだと思う?)

(例えば、仕事で成功をおさめている女性がいたとして、彼女が結婚していなかったら、子供がいなかったら、「でも、独身だよね」「でも、子供いないよね」とジャッジされる。なぜだと思う?)

つまりは、女は、家事をする、子供を産む、介護をするといったケア要員として、ようやく社会に認められる存在なのだ。男性のように、ただ存在するだけで”人間”として認められない。私たちは、社会から国から二級市民だと認識され、子供を産んだり介護要員としてケア労働に従事することが当然とみなされている存在。

そうだよ、ひとりの”人間”としての尊厳など、われわれ女性には、生まれた瞬間から、なかったんだ。

ケア労働に勤しんでこそ、やっと”使える女”として認められるのが今の社会だ。そして、ケア労働に勤しんでようやく女として認められたとしても、我々は、”人間”になどなれないのだよ。二級市民止まり。

女性は、性的搾取の対象物か、家事・育児・介護のケア要員としてのみ価値を認められるのが日本って国だ。ジェンダーギャップが153か国中121位の日本(2020年)だ。その紛れもない事実を認識することから、この惨状を直視することから、すべてがはじまるんだ。

私たちは、”人間”としての尊厳をずっと奪われ続けてきたんだ。これは、女として生まれ、女としての人生を生きている女しか知り得ない根拠だ。

(男性たちは言うだろう。「なにを大袈裟な?」「そんなちょっとしたことで?」「気にしすぎだよ」と。どうして彼らはそう言えるのか。それは、彼らが差別される側の人間として生きていないからだ。だから、私たち女性の切実な言葉や行動を、大袈裟だのパフォーマンスだの苦笑いして一蹴することができる。取るに足らないことだと、笑いながら切り捨てることができる)

だからこそ、私はこれから先の日々は、”人間”になりたいと思う。そのために微力ながら、声をあげていくことをやめない。些細な行動の数々を意識をもって変えていく。積み重ねていく。一番には自分自身のため、そして、現在とこれからを生きる女性たちのために。

現在に至る歴史の中で、理不尽な差別を受けてきた女性たちが諦めずに粘り強く声をあげてきたからこそ、今の私たちがある。とするなら、まだまだ差別が蔓延る中で、現在を生きる私たちは、決して黙ってはいけない。口を塞ごうとする手を振りほどいていく。

後悔しないし、罪悪感を持たない。引け目も感じないし、反省しないし、苦しまない。

私は、”人間”として生きる。

生き方・働き方,フェミニズム

Posted by しがらみん