誤解されたままでいい【過去の苦しみ・ネガティブな記憶と共存する】
緊急事態宣言が発令され、コロナで自粛生活がはじまり、3週間が過ぎた。
以前の記事でも書いたが、潜在的な不安がまとわりつくようになった。自粛生活の中、過去のネガティブな記憶を思い出すようになって苦しく、なかなか気持ちの切り替えができない日々が続いている。
それで、なぜ私は過去の記憶の断片を、未だに引き摺って落ち込むのかということについて、今一度考えてみることにした。
それで、辿り着いたのは、
『誤解されたままになっていることに未だにこだわっているから』なのではないか?
ということだ。
私が過去の記憶に落ち込むのには、複数の理由があると思えるので、これは数ある理由のひとつに過ぎない。
でも、確実に私が過去の記憶に落ち込む理由のひとつなんじゃないかな。
誤解を解けないままだから
『誤解されたままになっていることに未だにこだわっているから』
言い換えると、「私は、そんな人間じゃない」って感じかな?
うまく言えないけど、
「違う、私はそんな人間じゃない」って言いたかったけど言えなかった。伝えたかったけど伝わらなかった、伝えられなかった。
ってことなんだ。
だから、きっとその”私を落ち込ませる記憶の断片”っていうのは、相手(受け手)というよりは、私自身の気持ち次第でどうにかなることのように思えてきた。
そうだ。きっと、相手は何も気にしていない。覚えてさえいないかもしれない。ただただひたすら私自身が、「そうじゃない。私はそんな人間じゃない」と自分だけの小さな世界で叫んでいるだけ。
だったら、もう誤解なんて解けなくていい、解かなくていい、誤解されたままでいい。
大丈夫だ。私が「そんな人間じゃない」ということは、私自身が一番よく知っている。だから、大丈夫だ。
私を落ち込ませる記憶の断片の種類
蘇ってくるネガティブな記憶の中には、私自身の気持ち次第でどうにかなりづらい種類のものもある。
例えば、子供の頃に受けたクラスメイトからのちょっとしたからかいみたいなもの、クラスメイトとしては深い意味もなくやったことかもしれないのだけど、私自身はそれによって深く傷ついたと感じたことなど・・。
そういった種類のネガティブな記憶っていうのは、なかなか自分の気持ち次第でどうにかなりづらく、先にあげたような「相手の誤解を解けなかった」という記憶とは異なる。
だから、ネガティブな感情には、様々な種類があって、その対処法もひとつではない。
一方的に受けた理不尽な出来事の記憶っていうのは、厄介だ。どうすることもできない。自分の気持ち次第でなんとかならない。ひょっとしたらなんとかなる人もいるかもしれないが、少なくとも私は、過去に受けた理不尽な心ない暴言などを、自分の気持ち次第でどうにかすることは、今のところできないと思う。
ネガティブな記憶を抱えたままで
となると、ネガティブな記憶や痛みと、完全に訣別することなどできやしないってことになる。
完全に消し去ることができないのだというなら、うまく共存しながら進むしかない。ネガティブな記憶や痛みを抱えながら、時折、「よしよし」と自らを慰めながら、歩いて行くしかないってことかなあ。
きっと誰もがそうなんだろ?
自分だけじゃない。多かれ少なかれ、どうすることもできない記憶の欠片を、持て余しながら、それでも、周りに悟られることなく、まるで何もなかったかのように、日々を過ごしてんだろ?
だから、私も、知らんぷりして、時にはネガティブな記憶のいびつなパーツをひとつひとつ繋げてみたり、解いてみたり、不透明の瓶に入れてみたり、引き出しの中に閉まってみたり、水槽に沈めてみたり、バーナーで溶かしてみたり、日光に当ててみたり、水洗いしてみたり・・そりゃあもう、アレコレやってみて、ジタバタするしかないの。