恥ずかしげもなく、私はドリーマー
わたくしは、しがらみん。アラフォー漂流おひとりさま派遣社員だ。
さて、以前にも少し書いたことがあるが、私はずっと制作活動をしている。かれこれ15年以上は続けている。例えるなら「売れない日本画家」だ。
(これは、あくまで例えであって、実際日本画を描いてるわけではない)
とはいえ、食扶持を稼ぐための労働と並行しておこなっているため、ここ最近は、活動らしい活動も制作もほとんどできず、ずいぶんほったらかしであった。
かつては、現在の派遣労働に比べて圧倒的に労働時間が長かったものの、若さでどうにかなったのだと思う。
現在の1日8時間労働(週5日)ですら、アラフォーの自分には少々キツイ。
通勤時間が長いこともあって、帰宅してから何かするということがほぼできないまま日々が過ぎていってしまう・・。
また、以前の記事『やりたいことをひとつに決めつけすぎるとよくない』でも書いたが、15年以上制作を続けてきて、迷いの中、少し立ち止まってしまった、ということもある。
まあ、平たく言うと、「どうすりゃいいの!?」って状態だ。
こんなブログ(『しがらみん』のことだ)なんか書いて、気持ちを紛らわそうなどとして、数ヶ月が経とうとしているが、不思議なもので、ほったらかしにしていると、意外にも反応がもらえたりする。
そうすると、やっぱりこの制作活動に注力して、やり続けたいという気持ちが強くなる。まあ、たぶん自分の本音はわかってる。
この制作をずっとひたすら続けたいということだ。
それに自覚的になったのは、ある中小企業で正社員として働きはじめたときのことだ。ここは、以前からよく記事に書いているブラック会社とは、また別の会社である。
この会社での仕事は、興味のある業務内容であり、それなりにやりがいがあったのではないかと思う。
でも、おそろしいことにだね、そんな職場で働きだしたものの、仕事中しばしば考えていたのは、「あー、早く家に帰って、作る続きしたいわー」ってことだった。
そう、私が一番やりたかったのは、ずっとやり続けたいことは、たいして稼げもしない「作ること」であった。
(結局この中小企業は別の理由で辞めざるをえなくなったのだが、詳細はいつか書けたら・・)
やりたいこと・続けたいことは決まっている
↓
でも、それだけでは稼げない。食扶持を稼ぐために労働する
↓
労働で疲弊して、肝心のやりたいことが中途半端になる
このループの繰り返しなんだよなあ。
一番いいのは、やりたいこと1本で生活できるほど収入を得られることだ。でも、残念ながらそこまでいけていない。
今後、そうなれるのか?と問われると、自信を持ってそうなると言えない自分がいる。そんなこと言ってる時点でダメなんだよ!という声が聞こえてきそうだ。
覚悟が足りないから、そんな中途半端な心持ちなんだろ?と、自分でも薄々はわかっている。それでも、アラフォーにして自信満々ではいられんわなあ・・、というのが本音だ。これが20代とかならまだしも。
ただ、制作をずっと続けていきたい。それは間違いない。30代前半くらいまでは、まだそんな状態でもやってこれたが、さすがに40代に突入する年齢になって、もう一生私はこのままかもしれないと思う。
とはいえ、このまま芽が出ないなら、スッパリ諦めて、正社員としてどっかの会社に就職してまっとうな日々を送る・・という選択肢はない。
というのは、かつてのように正社員になれば安泰なんていう時代はとうに過ぎ去った。正社員になったところで、倒産するやもしれん、メンタルやられて立ち直れないかもしれぬ、ブラック労働の犠牲になって過労死寸前かもだ・・。
一部のホワイト企業や公務員などをのぞいては、安泰などどこにもないのだ。
いや?ホワイト企業だって公務員だって、何があるかわかりはしない。
そもそも、中年でたいしたキャリアもない自分が、今さらホワイトな正社員などなれるはずもなく、ゆえに、もうそちらの選択肢は考えていない。
だったら、だったら?
やり続けようと思う。ずっとずっと芽が出ないまま、ブレイクしないまま、不安定なままで、好きなことを。
幸か不幸か、私はひとりだ。
誰かに行動を制約されることはない。もうのたれ死んだっていいと思ってる。GOけもの道。
(まあ、そうならんようにせっせと貯金にいそしんでいるけども・・。)
もういいよ、私はずっとドリーマーのままで。恥ずかしげもなく。
寝言言ってんじゃないよと言われたってかまわない。世間様の言うまっとうな道を歩もうとしたところで、きっと幸せではない自分がいる。
もう今さらまっとうな人生とか無理なんで、好きにする。
スピッツの歌詞みたいに、”ずっとまともじゃないってわかってる”
というか、これまでもずっと、それなりに好きに生きてきたような気もしているよ。
振り返ってみて、「あ”ー!間違えた!あのとき、〇〇していれば、××しなければ・・」と、いくつもの選択の連続の中で、間違えた!と感じる場面は多いのだけど、それでも、そのときそれを選んだのは、とりもなおさず「私」なのだよね。
たとえどんな理由があったにせよ。
だから、そういう風に考えていくと、私はずっと好きなようにやってきたのかもしれないと感じる。