プライドの柵を越えたい

いつも、職場を去ったあとは、ちょっとした後悔が沸き起こってくる。
それは、”人間関係”について。それに尽きる。

いつもいつも、「もうちょっとこうしたらよかった」「なぜもう少し心を開けなかったか・・」と毎度同じことを思う。

今回もそうだ。
私は、わりと表面上は適当にコミュニケーションをとれるほうだと思う。業務上必要なコミュニケーションは問題なくできる。

ただその先へいけない。
別に職場に友達を作りに行ってるわけじゃないから、業務上問題ないならそれでいいと思う。
でも、もう少し心を開いて自己開示したならば、仕事を越えたところで親しくなれる人が見つかるかもしれない。
だけども、それが億劫と感じる。
もっと親しく話せる相手と出会えたら嬉しいという気持ちと、今更面倒くさいという気持ちが、いつもせめぎあい、最終的には面倒くさいという方に針は傾くのだ。

なぜだ?

と考えていくと、私は、実はかなりプライドが高いのかもしれないと感じている。

いや?ちょっと語弊があるな・・。

ある部分ではとても低いプライド(ないに等しい)なのだが、ある部分ではプライドが邪魔をして自己開示できない・・のではないかな?と。

スピッツの「渚」の歌詞に、「はじめてプライドの柵を越えて」というフレーズがあって、いつも心に残っている。
なんだか、私は、ずっとプライドの柵を越えられないのだと思う。
子どもの頃からずっとそうだった気がする。
時々、おお、この人は話しやすい!という相手に出会うのだけど、年をとるにつれて、そういう機会が減っていき、40歳になった現在、残念ながら、私がプライドの柵を越えて話せるような相手はいない。

↑名曲ばかりだ!もちろん「渚」も収録されている。

先日契約満了した派遣先だって、もうちょっと自己開示したら違う結果だったかもしれない。
まあ、3年間一緒に働いてみて、派遣メンバーたちとは根幹が異なるというのは痛いほど感じていたので、仕事での関係を越えて親しくなれる人たちではなかったとは思う。
けど、それにしたって、もうちょっと違う接し方であったら、違う結果だったかもしれない?と。

働きはじめたばかりの頃、派遣メンバーたちとの会話の中で、「今度、××県に旅行に行くんだよ。初めて行く旅行先なので楽しみだよ」と言われたことがある。
その××県は、私の母の実家がある県だった。小学生の頃の夏休みには、ほぼ1ヶ月ずっと母の実家(祖母の家)で過ごしていたほどだ。私にとって大変馴染み深い土地だ。
(今では数年に1回程度しか行けていないが・・)

でも、そこで「私の母の実家って××県なんですよ!」とは言えなかった。
なぜだかわからない。
でも、それを言ってしまうと、自分の家族のことや、子どもの頃の話をしなければならないような気がした。それが億劫に感じた。

きっと私が「私の母の実家って、××県なんですよ!」と反応したのなら、相手は「そうなんだ、××ってどこがオススメ?」などと、会話が広がったに違いない。
せっかく相手との共通の話題があったにもかかわらず、そのワードに反応しないことで、会話のきっかけを失ってしまう。
そんな感じで、その話題に反応すると自分のことを話さなければならないという場合には、あえて無反応にする、ということを多くしてきてしまった。
会話が広がれば、もっとお互いの違う一面を知ることができて、違う印象を持つことができたかもしれないのに。
表面的な世間話的な会話に終始してしまう。

なぜ、もっと自分のことを話そうとできないのか?

いつもいつもこれは悩みだ。
おそらく自分が傷つきたくないあまりに、自己防衛の手段として、自己開示できないのではないかな?と感じる。

だから、次の場所では、気負わず、もっと気楽に心を開いてみようと思うんだよ。
毎回そう思って新しい場所へ行くのだけど、結局うまくできずに、いつもいつも自己嫌悪に陥る。

今回も同じだった。

そう、私は、プライドの柵を越えられないでいる。
相手が心を開いてきてくれたとき、同じ分量で開いていかなけりゃいけないのだと思う。でも、それがなかなかできない。

プライドの柵を越えたい。

考える日々

Posted by しがらみん