なぜ希死念慮にとらわれている?

数年前から読んでいるブログがいくつかある。
彼らの文章に信頼を寄せて読み続けている。

もちろん記事によっては、あれ?そうかな?と思うときもあるのだけど、根幹の部分では自分と近いものを感じて、勝手に一方的に親近感を持っている。
ああ、そう、それ!と思わせてくれる。ちょっとした機微、それがとても自分と近い。
ネットの大海を彷徨っていたときに、偶然存在を知ったブログたちで、ブログ村などのランキングサイトに登録しているブログではない。

彼らのブログに共通しているのは、書くことが好きだということが伝わってくるところだ。

そんなよく読んでいるブログのひとつ、私と同世代と思われる人のもので、基本は日常記なのだが、時折、希死念慮にとらわれる記事がアップされる。
私には、その気持ちが半分わかるような気がして、半分わからない。

その人は、自分のスペックや現状をそこそこ明かしているので、そこから受け取るのは、そう悪くもない?というものだ。
いや、むしろ途中までは、輝かしいものだったと思う。世間が認める輝かしさでもあり、同時に本人が努力したからこそ得られた称号とも言える。

そんな彼がたびたび書き連ねるのは、「自分は無能な人間。価値のない人間。自裁したほうがいい」というような希死念慮にとらわれた言葉だ。

私から見れば、なぜそう思う?と感じる。
どこが無能だ?と。
たぶんこの人のブログの読者は皆そう感じているはずだ。この人の文章はすごい。ブログなんか書いてないで小説を書けばいい。彼の筆致は近代文学の文豪のような凄みがある。
(決してブログを軽くみているわけではなくて、この人の文章はリアルタイム的なブログよりも、小説のような長期スパンの媒体の方が合っているように思うんだ・・)

こんな輝く才能を持っていながら、なぜ悲嘆する?
いや・・「なぜ悲嘆する?」だなんて愚問だ。
そんな言葉を投げかけたくなる、そんな人間は凡人だ。だから、私は凡人だ。

それにしたって、希死念慮にとらわれた記事を読むたびに、このひとは本当に死ぬんじゃないかと思う。
かまってちゃんが「死ぬ死ぬ」言っているのとはわけが違う。アクセス数を稼ぐために刺激的な文言やエピソードを散らすブログとも当然違う。この人のブログを読み続けていて、それがわかる。

会ったこともないし、この先会うこともないが、彼の文章を通し、私は心動かされることがたびたびある。そういった点では、”影響を受けている”と言える。

たとえば、何か事件などが起きたときに、この人ならどう考えるだろう?と思ったりする。この人の言葉が聞きたいと。
なんだかよくわからないが、ネット上の奇縁とでもいうのか?この人の行く末を見守りたいと思う。

考える日々

Posted by しがらみん