女たちの終わらないおしゃべりってのができなかった【ホットスポットという物語の中にはいない私】

「ホットスポット」が終わった。

途中からなんとなく観はじめて、気づいたら毎週楽しみになった。とても面白くて、よかった。

ただ、ただね、なんだろう、このせつなさは。うまくいえないけど、ほんのり疎外感っていうのかな?

同じバカリズム脚本の「ブラッシュアップライフ」のときも、似たようなことを感じたのだけど、それっていうのは、

あーあ、私はこの物語の登場人物たちのような、女たちの終わらないおしゃべりってのが、できなかったなあ、ってことなんだ。

女たちの延々と永遠のように続くおしゃべり。他愛のない会話。時折毒があって面白くて楽しい。美味しいものをほおばりながら結末のないおしゃべりは続く。

世間が思い描く女たちって、ああいう感じなのかもしれない。10代の頃も大人になっても、いやオバサンになっても、女たちはいつも集まっておしゃべりしている。カメレオンのように話題がクルクル変化しながら楽しく会話が続くのだ。

でもさ、「あれ?」って思う。

この物語の登場人物の中に、私はいないなって。

年を重ねて老人になってもずっと女たちは一緒に楽しくおしゃべりを続ける。ファミレスや喫茶店に集う。子供の頃の話、学校での話、同級生の話、今のあれこれ・・。

そのどれもが自分にはしっくりこないものだ。

きっと多くの女たちは、バカリズム脚本のドラマのように過去の他愛ない思い出を共有して反芻して笑い合える、現在のちょっとした出来事をずっと話していられる。移りゆく話題に戸惑うことなく淀みなく会話は続くんだ。

いやいやいや、でも?

私はそこにいないなって思う。

だから、ホットスポットもブラッシュアップライフも、私の知ってる「女たち」じゃないし、なんなら、現実世界では関わりを持たない種類の女たちのように思うんだ。

だから、そこらへんがちょっと切ないんだ。

ドラマとして、女たちの他愛のないとりとめのない会話に耳を傾けるのはとても楽しい。

でも、私自身がその女たちの中に混ざって一緒におしゃべりしたいか?といったら、そいうことでもない。ほんのりと疎外感を抱いたとしても、「自分も仲間にいれてほしい!」という感情とは少し違う。

やっぱり自分自身が、世間が思い描くマジョリティの「女たち」のイメージから大幅に外れているからかもしれない。輪の中に自分も入りたいとは思わないが、最初から当たり前のようにすんなりと輪の中でおしゃべりを続けられる女たちへ驚嘆を抱く。なぜそういうことが当たり前に苦なくできるのかという疑問。そして、そういった「女たち」になれなかったことへの後ろめたさ、みたいな感覚があるのか〜もしれない。

ブラッシュアップライフのときからずっと違和感があった。男(バカリズム)が抱く幻想の女の友情のような、そんな印象を受けたんだ。そうだね、ファンタジーだと思った。ほんわかファンタジー。

女の友情とは「ブラッシュアップライフ」や「ホットスポット」のそれではないと私は感じてしまう。

だけど、世間一般にとってはああいうのがシスターフッドなのかもしれない。「バカリズムって男なのに女の友情わかってる!!!」って感想を抱けなかった自分。マイノリティであることが浮き彫りになった瞬間。

マイルドヤンキー臭、地元愛、イオン、ラウンドワン、同級生、あの頃と同じ感覚で続く友情・・そのどれもが私にとってほんのり苦手で怖いものだ。

まあ、ともかくドラマとして面白くて楽しかったけど、私の知らない女たちの物語を見せつけられたような残酷さもあるなと思った。

ひとしきり笑ったあとに訪れる、なんともいえない寂寥感・・。

(いやいや、たぶんそういう視点で観るドラマじゃないんだとはわかってるんだけどね・・)

この「ホットスポット」ってドラマに、私と似たような違和感を覚えている人って、少ないながらも実はいるんじゃないかな?という気もしている。

いやだって。クラスメイトの7、8割がホットスポット的な女子だったとして、2、3割くらいは違うのいたじゃん?

子供の頃から、女の子たちの輪の中で終わりのないおしゃべりができなかった私は、40代後半のオバサンになった今でもオバサンたちと群れることを徹底的に避け、オバサンたちと集うことを忌み嫌い、オバサンたちと会話する機会を極力減らそうと日々奮闘しているのだから。

やっぱり10代の頃にああいう会話ができなかったら、オバサンになってもそれはできないまま。

私の知らない女たちの物語。それが「ホットスポット」

でも、ファンタジーとして楽しかったし面白かった。

お終い。