「ひとりでできること」が得意だったことを思い出した
長距離散歩をしていると、歩きながらさまざまなことを思い出すんだ。
ずっと忘れていた過去の出来事とか子供の頃の思い出とか、以前の職場でほんのちょっとだけ一緒に働いた人のこととか、普段気にも留めていない、そんなことあったか?ってくらいの記憶の断片。
そういったものが突然フっと脳裏をよぎる。
歩くようになって如実に感じる。何かがじんわりと動いている感じがするんだ。歩く振動と共に眠っていた記憶が跳ね上がってきてシャッフルされるような?
それで、そういえば私はずっとずっと「ひとりでできること」が得意だったな、と思い出していた。
歩くこと・ウォーキングもそうだけど、ひとりでできる。自分のペースで、自分の気まぐれで、自分に集中できる。
歩くことが苦にならない、むしろもっと歩きたいと感じるのは、「ひとりで自由にできるから」なのかもしれない。
子供の頃、運動神経はよいほうだった。運動会ではいつもリレーの選手だった。短距離も速かったが、長距離のほうが得意だった記憶がある。
ひとりで黙々とできる持久走、なわとびなどが特に好きで得意だった。特になわとびは小学生の頃、ドはまりしてずっと飛び続けていた時期がある。二重跳び、三重跳びとか。自分なりの記録をつけていた記憶がある。もっともっと回数を重ねるために。学校の授業とか無関係に、単に趣味でやり続けてた時期がある。
中学時代はバスケ部だったが、あまりいい思い出はない。バスケってチームプレーだから女子特有の関係性等もあり、上手くやれなかった。本来の自分を思うように発揮できず燻っていた・・そんな苦い思い出がある。
そこから運動から遠ざかって早30年。運動らしい運動はしていない。
でも、もともとは体を動かすこと、ひとりでコツコツ自分のペースで記録を積み上げられる種類の運動がわりと得意だったってことを、最近歩き始めたことで思い出した。
中学時代のバスケ部のときは、ダメだった。バスケってチームプレーだから、コミュ力とか周りを察知して動く能力がとても大事なんだけど、自分はあれこれ考えすぎのところがあった。それと、自分が所属していた女子バスケ部はわりと陰湿な雰囲気もあった。そう、すごくいじわるい空気というか、そういうの全般うまく馴染めなかった。
仕事でもチームプレーが得意な人と、個人プレーが得意な人、2種類いると思うが、私は後者なんだと思う。
いろんな職場を転々として今日までやってきたが、本来自分には向いていない環境に自らを晒し続けてきてしまった気がする。
中途半端なんだ。どっちかに振り切れることができずに今日まできてしまった。
まあ、それで何が言いたいのかというと、私は結局他者の目や行動を気にしていて、ゆえに思うように行動できないんじゃないか?ってことだ。
子供の頃から「ひとりでできること」「ひとりで完結すること」に取り組むほうが得意だった。運動でも、走ったりなわとびだったり、個人プレーの側面が強いもののほうが自分の力を発揮できた記憶がある。
運動だけではなくて、物作り方面でも工作や絵や立体や手芸、そういった基本的にひとりでできるものが好きだった。たとえばグループで班に分かれてひとつの作品を作ろう!みたいになると、途端に周囲に気を遣って意見を言えなくなったり、煮え切らない思いを抱えていた気がする。その場でパワーのある同級生に遠慮して「こうしたらいいのになあ〜」って意見を飲み込んだ。
子供の頃の記憶、20代の頃の記憶・・さまざまな記憶がたちのぼっては消えていく。
自分の裁量で自分のペースでできる何かがしたい、そんなことを考えるんだ。いや、これまでも何度も何度も考えてきたが、あらためてやっぱり私は「ひとりでできること」に取り組むとき、力を発揮できる気がした。
きっと私がお笑い芸人を目指すなら、コンビでもなくトリオでもなく、ピン芸人だろう、と。そんな感じだ。
来年のことを考える。現派遣先をMAX3年まで続けられたとして・・来年にはまた失業する予定だ。そのあと、どうするんだろう?
セミリタイア的な生活にシフトしたいと考えているけど、一体何をどうやっていこうか?と、考えている。
そう、考えてばかりで、行動できないのがここ数年の自分だ。持病が重症化したこともあって先のことを考えられない時期もあったが、ここ1、2年はかなり落ち着いてきた。薬である程度症状が抑えられている(ただ、症状に波があるので、急に悪化したりするからそれは読めないんだ。そこが怖いし一生薬は手放せない)
そろそろ何か行動しようと思うけど、最近の自分ときたら、歩いてばかりだ。