【ユリ熊嵐】私はスキを諦めて透明になったのか

ユリ熊嵐を観た。

『少女革命ウテナ』をリアルタイムで視聴し、当時熱狂した。今でもウテナは好きなアニメベスト3に入る。

幾原邦彦監督作品は、『輪るピングドラム』を最後にまったく観ていなかった。『ユリ熊嵐』という作品があること自体知らなかったほどに、アニメ、サブカル的なものから遠ざかった。

たまたま配信サービスで『ユリ熊嵐』をみつけて、幾原監督の作品だと知り、観てみることにした。

全12話。

最終話を見終わって思ったのは、「なんだかトーマの心臓みたいだ」ってことだ。

そして、胸にガラス片が刺さったみたいな苦しさがあった。その正体が何なのか、あまりに漠然としていて自分ではよくわからなかった。ただ、苦しかったことだけは確かだ。

最終話を見終わったあと、なかなか余韻が消えず、日常の隙間に、ふとユリ熊嵐のセリフがしのびこんできた。

「私はスキを諦めない。スキを忘れなければいつだってひとりじゃない。スキを諦めなければ何かを失っても透明にはならない」

劇中のセリフだ。

スキを諦めなければ何かを失っても透明には、ならない?

一度観ただけでは理解できない部分が多くて、2周した。非常に細部まで作り込まれていて感嘆する。美しいビジュアル、様式美、映像美。幾原監督の世界観が好きだ。

それで、やっぱりトーマの心臓のようでもある、と思った。

百合というだけあって、レズビアン的な描写がクローズアップされがちかもしれないが、本質はそれではないということがよくわかる。

おそらくこれを男女でやってしまうと「愛」を描けない。トーマの心臓と同じ構造だ。ギムナジウムの少年たちである必要があった。

たぶん私が苦しかった理由。その正体。それは、中年期に入った自分が、ユリ熊嵐で言うところの「透明」になってしまったんじゃないか?という苦悩だったのかもしれない。

私はもはや他者との関係を諦め、スキを諦めた。だから、透明だ。

でも、若かった頃の自分は、スキを諦めなかったし、少なくとも透明ではなかった。きっとあの頃の私を思い出して、失ったものを思い出して、私は苦しかったんだよな。

あんな無償の愛を見せつけられたら、泣くしかない。でも、40代、中年期の今の自分には到底手に入らないものだとわかっているから、過ぎ去ったあの頃を思って泣いた。

それに、「スキを諦めない」というのは、誰か(相手)に対して、ということだけじゃなくて、あらゆる事象に当てはまると感じたことがさらに苦しかった。

私はかつて好きだったものを、今は手放したり昔のように情熱を持って取り組めなくなっている。あの頃灯した火が消えかけていること。それを「ユリ熊嵐」という作品に突きつけられた気がして、苦しかったんだな、たぶん。

10年前の作品と知って驚く。

たぶん若い頃に観たら、また別の感情が沸き上がってくるんだろう。40代の今だからこそ感じるものがあった。

そうだな、眩しかったよ。まばゆかったよ。

自分とは違う他者を受け入れること。与える愛ということを考えた。

それで、あーあ、私は誰かに愛を与えただろうか?と振り返るんだ。そこに打算や利害関係はなかったか?

中年期の私にとって、苦しくて眩しくて直視できないような、そんなアニメだったよユリ熊嵐。

それで、再びスキを取り戻せないだろうか?と妄想するんだ。透明から色のついた自分になれないだろうか?だなんて考えてしまうんだ。