AI時代なら身体を鍛えるっきゃない
生成AI時代、私自身はというと、「AIよくわからん」ポジションだ。
数年前にChatGPTが盛り上がったときちょっと使ってみて、それっきりだった。
あれからたった数年で、生成AIがすごいことになっちゃってるみたいだ。
今の若者はチャッピーと毎日会話するらしい。そういえば、前派遣先の20代男性社員も「ChatGPTを”相棒”って呼んでて、毎日会話します」って言ってたなあ。そんな感じらしい。
私はというと、生成AIよくわからない。
ただ最近ネットを見ていて、AIで生成したイラストなどをよく目にするようになったように思う。ブログ記事なんかは生成AIで書かれているものも多いのかもしれない。私が気づかないだけで。
小説も俳句もイラストもアニメも音楽も映像も・・あらゆる創作ジャンルが生成AIで作れる。しかもクオリティ高いものが。
となると、なんか人間の意味あんのかな?って感じてしまう。私が古くて遅れてる人間なんだろうけど。
まだAIには難しそうな創作ジャンルとしては、油絵とか日本画とか彫塑とか手刺繍みたいなアナログジャンルかなあ?
そのうちAIでリアル立体物も生成できる時代が来るのだろうか。例えば、素材を指定して、(例えば木材、粘土、布とか)これこれこういう造形っていう指示を出したら、グワーンって作り出してくれたりする時代来るんかなあ?
とりあえずデジタル分野の創作は、生成AIで優れたものが作れるようになってきている。この先人間がやる意味を見出せなくなるのではないかなあ。イラストとか小説とか。
私が誰かの文章を読むのはその人の体験が知りたいから。感情が知りたいから。誰かの心の底から湧き上がった物語を知りたいから。悩みながら考えながら紡いだ言葉を聞きたいから。でも、もしAIで生成されたものに心動かされるのだとしたら、人間がやることはもう何もないとすら感じてしまう。
小説家が、歌手が、死後もAI技術によって新作を出し続けられるのだとして、それになんの意味があるんだろう?
(生成AIに対する知識不足で、誤った認識をしているかもしれない。「生成AIはひとつの道具にすぎず、最終的には人間がいないと成り立たない」という考えは頭では理解できるが・・、それでも氾濫するAI創作物に対する疑問は尽きない)
いつも思い浮かべる光景がある。
ズラーっと並んだ無数の棺桶。
みんな棺桶の中で夢を見るんだ。ぜんぶ棺桶の中。身体は棺桶の中にあって、バーチャルであれやこれや忙しく日々を過ごしている。誰かを好きになったり働いたり旅行したり食事したり運動したり・・それらはすべて仮想の世界。そのうち人間は身体を失う。魂だけの存在になる。
それが人間の行き着く先なのかもなあ。
もう人類滅亡フェーズに入ってるのかもしれない。終わりの予感がする。
自分なりに今できることを考えた。
とりあえず「自分の身体がここにある」って感覚は、私だけのものだ。だからこそ、自分自身の身体を感じられること、それこそが今私に必要なものなんじゃないか?
長距離ウォーキングにハマったのも、そういうことかもしれない。
なわとびもはじめた。数年前になわとびしようと思って買ったんだけど結局やってなかったが、ウォーキングついでに公園でなわとびすることにした。小学生の頃、むちゃくちゃ跳べたのに全然跳べなくなってて愕然とした。公園の芝生で打ちひしがれた。
当たり前だ、こちとらアラフィフなんよ。ちょっと跳んだだけでゼエゼエ息があがった。
ぜんぶ知的労働はAIがやってくれて、創作もエンタメも全部AIが作ってくれて、メールの返信も会話もぜんぶAIがやってくれて、悩みを聞いてくれて話相手になってくれるのだとして、人間はAIを使いこなすってだけになるのだとしたら・・
身体鍛えるしかねえ。信じられるのは己の身体だ。そんな気持ちだ。筋トレ狂の気持ちがほんの少しわかった気がする。
(いや、フィジカルAIの研究も進んでいるってのをなんかのニュースで見た。人型ロボット時代くる。SFの世界が現実に・・)
そういうことで、とりあえずなわとびだな。




















